時間よ止まれ

 

他人からすれば、さして代わったようにも思わなくても

鏡を見て、自分では今日はかわいいとか、変とか思ったりする。

自分の変化は些細な事でも気がつくものなのかもしれない。

それが嬉しい変化なら、なおさらかな?

自分は成長したって思うことってある。

そういう場合は特に自分の中に大きく存在するんだろうな。

他人にはどうであれ。

というか、同じぐらいの変化を他人に感じられるかは疑問。

昔の友達と話していて?と思ったのは、

長い間会っていない人物って言うのは、その人と最後にあったときの印象が何時までも残る。

例えば、最後にあったのが10年前だとすれば、普通に考えれば、変わらない部分はあったとしても

自分にその10年の間にあった変化が、相手にあっても不思議じゃないのに

10年の間に成長したと思っている自分と、

それを加味されていない相手を比べて駄目呼ばわりしていたのを聞いたとき。

例えば、極端な話、10歳のときにあったのが最後だとして、

20歳の成長して、大人になったと思っている自分と

自分の記憶に残っている、10歳の子供の相手を比べて何かを言っているのだ。

なんで、自分の時間は進むのに、相手の時間は止めてしまうのだろう。

人間っていうのは生ものである。

昨日と、たいして変わらない自分が存在する事もあるが、

例えば、今日は機嫌が良いだの悪いだの、調子が良いだの悪いだのとか

変化する事も多々あるし、自分が置かれている状況も多々ある。

となれば、今日はカレーが食べたいとか、いつもより早く寝たいとか、

今ならできるとか、できないとか、

そんな細かな変化があって当然なもの。

なのに、他人に対して、知っていると思えば思うほど

あの人はこうだろうとか、これぐらいは良いんじゃないかとか、

相手も生もので変化するものだと思うのだが、なんとなく静物のようになっていく。

それで動かなかったり変化しなかったら楽なのかもしれないけど、そうも行かない。

相手にしろ、人間関係にしろ、世界にしろ、時間を止めたつもりで考えているとき

本当に取り残されるのは自分の方なのかも。

 

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