知りたい気持ち
人間観察が好きな人がいる。
そういう人は他人に興味があるのだろう。
私はといえば、殆ど興味がない。自分大好き人間。
昔、よくあった『AくんとBちゃんはつき合っている』とかの噂も
正直な所、今も昔も興味がない。
といっても、以前は他人の気持を知りたいと思った事もある。
恋人の気持を推し量ったり
女の友情特有の人間関係を無難にこなす為であったりの目的で。
心理学の本を読むのも大好き、占いも大好きだった。
今はどっちも辞めてしまったけど、当時の入れこみは半端じゃなかった。
他人の気持は、わからないと思う。
どう考えても、その人と同じ人生をおくってるわけじゃないから
本当に、わかることってないと思う。
わかったと思っても、
それは自分の価値観の世界から見えたその人だもんな。
その人にない価値観はわからないものなのだ。
自分の常識で、これは言葉にしなくても
当然解ってもらえるだろうと思っても
悪いがそんなものは伝わらないと思う。
言葉の使い方や、考え方そのものの違いで
言葉にしても伝わるとは限らないけれど
言葉は重要だと思う。
でも
『言ってくれればいいのに!』って言う状態がある。
言わなきゃわからないという状態。
確かに、言わなくても解ると思っている人は言った方が良い。
でも、根本的な『言ったら解ってくれる』と思える
信頼関係が崩れていたら話しは別。
楽譜に休符があるように
それは、言わないという言葉。
何も言わないっていうのは
言葉になっていないだけで
表現手段の種類だと思う。
『言いたいことがあるなら、言ってくれれば良いじゃん』
ってもし思うのなら
人のせいにしないで、自分で聞けば良いと思う。
もし、聞けるだけの強さがあるならね。
あの頃は、きっと他の人の気持が怖かったんだろうな。
他人の気持を知ることで、傷つかないようにとか思ってたんだろうな。
相手の気持がわかるようになろうとか、そんな建前で
わかったふりをしたかったのだろうな。
自分のダメなところを直視できないほど弱虫だったから。
他人の気持は、その人のものなのだ。
今、私が知っているつもりのその人は
私が作った幻想なのだろうな。