マダムY.の優雅なる日常

日本のコートダジュール、横須賀日本のニース、広島の呉で、瀬戸内海に沈むオレンジ色の夕陽を眺めながら暮らすマダムY.の優雅な日常生活をあなたに送ります。 好きなもの:えび

about マダムY.の優雅なる日常 98年にサイトを立ち上げたときから、残り続け散るコンテンツです。為になるようなことは1つも書いていません。

2012/04/04

みんな仲良く

人間関係でときどき距離があるとかないとかっていう話しが出ます。
あり過ぎてもなさ過ぎてもダメだそうで、その線引きが、人によって相手によって事柄によって変わるので、また難しいのだと思います。


『自分の事のように相手の事を考えなさい』
これは良く耳にするんですが、とても捉えにくい言葉でした。


例えば私がクサヤが好きだとする。とてもおいしいし、どうしても友人に食べさせたいと思う。
でも、その人がクサヤが嫌いだったら、お気持ちだけ頂戴しますっていう話しだろうし、自分と同じように考えるあまりに無理やり食べさせたなら迷惑だと思うのです。


『自分がされて嬉しい事をしなさい』
『自分がされて嫌な事を相手にするな』
とも言われますが、『自分の事のように相手を思いなさい』というのは、①他の人の立場や目線も考慮しなさいという意味と、②自分が自分であるように、他の人もその人である事を認めましょうっていうニュアンス。
自分と違う存在がそこにいる事を良しとするっていう感覚に近いと思うんですが、それをね、自分と他人とが同化する事、どちらかに迎合することと思ってしまうと、多分、おかしな話になっちゃうと思うんです。


日本人の美徳の察するというものも、相手の立場になって考えるという捉え方がありますが、おそらく本来は、何についてもまじめに捉えようとする…要は観察する、考えるというところが発端で、その結果、相手の立場になって考える能力が長けて、持ち前の器用さと合わさって発展してきたわけで、エスパー能力を磨きなさいとか、他人にとって、都合の良い存在になりなさいという話しではないんだと思います。


…というのか、どちらかというと、違うものに対してうまく調和できるのが日本人の本来の性質だとすれば、違うものは違うとする方が、無理な事なかれ主義を続けるよりも、向いているのかもしれません。


けれど、それを捉え違いをしていたら、例えば波風が起こらない事を一番だとしていたらどうでしょう?


距離感がない人に踏み込まれやすい人というのがいます。
それは、相手に距離感がないからだと考えるかもしれませんが…


例えば、NoというところをNoと言わずにYesと言えば、相手はYesと思うのは自然なことですよね?
そう考えたときに、まるっきり相手のせいとは言えなかったりするわけです。


けれど、Yesといった立場からすると、自分が納得いかない結果を招くきっかけになった相手や事柄に対して嫌悪感を抱くことになります。
それは、自分が受け入れるという選択をした認識があってもなくても変わりません。


だとすれば、それを踏まえて自分が選択なり行動なりすれば、他人を嫌うというリスクを軽減する事が可能かもしれないということです。


当たり前ですが、戦争なんて起こらない方が良いのと同じで、不要な対立なんて起こらない方が良いわけです。それを狙う他の利益にはなるかもしれませんが、当事者には何の恩恵もないのですよね?


小難しい事はわかりませんが、そういう観点で捉えたとき、『みんな仲良く』とか『調和』とか『平和』とか、スピで言うワンネス(けっ)とか、同化や迎合にあるわけではないと思います。
むしろ、自分が自分である事を忘れないところから始まるのであって、日本人はその異なる存在を調和させるのが、本来得意な存在だと私は思うのであります。


平等という名のもとに、ワンネス(けっ)という名のもとに間違った選択をして、未来に対立を生みたくはありません。その為に必要なのが、今を察するという力だと思います。
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