ギリシャ神話をしっていますか
「愛と猜疑は一緒にいられるものではない」
ギリシャ神話にアモルとプシュケの話しがあります。
プシュケの美しさの虜になっちゃったアモル(エロス)は、自分の姿を隠しながらプシュケと結婚生活を送ります。
プシュケは満ち足りた日々を過ごしておりましたが、そこに2人の姉たち登場。
最初は妹を心配していた姉たちも、プシュケの優雅な暮らしっぷりに嫉妬心メラメラ。
『え?旦那の顔を見たことがないの?』
『それって、おかしくない?』
『そう言えばさ、あんた、結婚できないからって占ってもらったとき、醜い怪物の人身御供になるとか言われてなかったけ?』
『それ、ヤバイよ。怪物だったら殺されるよ?だったら、とっととやっつけちゃった方が良くない?』
なんて言いながら、プシュケをそそのかしてしまう。
それもそうだなと思ったプシュケが、夜こっそり寝ている夫の顔を見て見ると、何とそこには姿麗しきアモルの姿が。
醜い怪物だと思っていたら、超イケメンの神様がねてるんだから、びっくりするのも当然。
そのとき、ランプの油が一滴、アモルの上に落ちてしまう。
びっくりして起きたアモル。
『俺の愛が信じられないとは…』と怒り、『愛と猜疑心は一緒にいられるもんじゃない』と捨て台詞を残して、プシュケの前から消えてしまいます。
私のうろ覚えではこんな感じの話しで、これは正しいのかは不明ですが、私の中では、まるで相手を信じなかったプシュケが愚かな女のような描かれ方をした印象が結びついています。
けど、それってどうかな?って思うんです。
私は単純に人間の性質を書いているだけなんだと思うんです。
わからない事を知りたいと思うスケベ心があって、それが嫉妬心と結びついたり、或いは、面白がったりすれば、別に姉たちのような行動を取る人たちがいても不思議じゃない。
プシュケにしたって、自分の結婚相手の姿すら見たことはないし、素性もわからない。
ましてや、変なお告げを聞かされたり、姉たちにあれこれ言われれば、不安にならない方がおかしいと思うですよ。
でも、アモルはその辺が頭からすっぽ抜けているけど、プシュケに尽くしているわけだから、その行動で判断してくれと思うのも、ご尤もなんです。
けど、この状況で、プシュケの立場で、闇雲にアモルを信じろっていうのはかなりハードルが高いんじゃないかと思うわけです。
だから、相手を信じ切れなかったプシュケが悪いと言ってしまうのは、ちょっと酷なんじゃないかと。
不安ていうものは、きっかけや理由はどうであれ、自分で作り続けるのをやめない間はキリがないので、他人がそれに付き合い切れるかは別な話しなのですが、
ただ、お互い仕方がないねって思えるところがあるとすれば、それを埋めるのがコミニュケーションなわけですね。
としたら、アモルとプシュケはコミニュケーションが取れていたか?という話しになると思うんですよ。
それなしに『俺の事を信用しないあんたが悪い』というんだとしたら、そりゃないだろう?みたいな。
と同時に、ギリシャ神話って、本当にそんな風に書かれてるのかな?という疑問もあるんです。
もし、ギリシャ神話という事実が存在したとして、それを誰かが誰かに伝えようとした場合、受け取る側は、伝えようとした人のフィルターを通したものを受け取ることになるわけですね。
もし、この事を最初に伝えようとした人がフェミニストだったら、たぶん違う伝わり方をした可能性もあるんじゃないかと。
ほら、宗教問題でも、学校教育でキリスト教弾圧って聞いたときは、隠れキリシタンの人に対して同情的な気持ちになるわけですが、宗教と国家侵略が結びついていたとすれば、また違う側面が見えてくる。
聖書でも、あんなの文字通りに読んでたら、何が何だかまったくわからない内容だし、実際、どっかずれて伝わっている。
話を戻すと…
だとすれば、このアモルとプシュケの話しの場合、大事なことは
「愛と猜疑は一緒にいられるものではない」
ってことではなく、
『わかんないもんはわかんないんだから、問題を大きくする前に、とりあえず、コミニュケーションを取った方が良いんじゃない?』
っていう話しのような気がします。



